読者からのお便り


 この日の午後から、段々畑で三宝柑を収穫していた山本純さんを、もう一度訪ねた。すでに谷底に近い段まで収穫作業は進んでいる。純さんが作っている柑橘類は、キンカン、三宝柑、極早生温州みかん、清見オレンジの4種類だ。
 「みかんは安価であかんな。甘いみかん作らなあかんな。酸っぱいみかんは売れん。そんな時代や。甘いみかん作ろうと思うたら、肥料はええのをやらな、配合肥料。どんな品種がええと言うて植えても、皆が植えて、もう遅い時があらい。梅もやるよ。小梅は5月、南高梅は6月に収穫。梅は人手頼んでやらないかんから、梅一本でしよったら大変やよ。みかんは人にあげてもええしよ」
 純さんの仕事はゆっくりと進む。モノラックのレールの上に腰掛け、出荷前の極早生温州みかんをいただく。
 「ここは風が来んで温(ぬく)いんや、一番ええ。今年のみかんは、まあまあの値段やったと思うよ。甘いみかんにしよと思うたら、マルチにして雨が土に入らんようにせないかんのやけど、熱心な人はしよるで。農業しよるんが一番気楽なんかな。みかん作りしよって、ストレスいうんはないな。ここは、先祖から引き継いだみかん山。昔からあったんや。お祖父さんのお祖父さんの人が開墾したんやと思うけどな。この谷を全部埋めて平地にして、それを皆で分けよ、いう話もあったけど、結局、反対する人があって止まったけど。この山にあるみかんの樹は、100本くらい違うん」
 「昔は、集落で遠足があってな、白浜へ行ったりよ。今は、もうないよ。宴会があって、カラオケがなかった頃やから、手拍子で歌ってよ。替え歌みたいなのを歌ったよ。酒飲まんと歌は出てこん。今の楽しみ言うたら、磯釣りによう行くんや。竿の先見とったら、仕事のこと忘れろ。ストレスないようになるよ。ホンダワラいう餌が、波で採れんのや。餌がないようになってな、近ごろは行っとらん」
 純さんのみかん山は、高尾山に近い東側の山の頂上にもある。そこの三宝柑をこれから収穫するというので、軽トラックに乗せてもらって一緒に行くことになった。曲がった細い山道を一気に登る。作業小屋からは、モノラックの荷台に乗って頂上へ向かった。みかんのトンネルを潜り抜けていく。用心しないと、枝にぶら下がったみかんが顔にぶつかってくる。みかん山の頂上からは、田辺市街地と田辺湾、それに集落の遠足で行ったという白浜の岬が見えた。
 「日和りのええ日には、四国の山が、ここから見えるで」。純さんはちょっと誇らしげだ。「風が冷やっこい。向こうは雪やろ」と、大阪や京都のある北の方角を見やった。

 

   

下14戸、中8戸、上10戸の集落 学校もあったし郵便局もあった
 上秋津地区の滞在も終わりに近付いていた。小正月の朝には、下畑集落の市杵島神社(いちきねじまじんじゃ)の境内で、正月飾りやお供えを燃やす「どんど焼き」をすると聞いて訪ねた。境内に、ヒヨドリやメジロの甲高く透明な鳴き声が響いている。最初に姿を見せたのは、杉若和明さん(50)だ。和明さんは、鳥居の下を潜らず脇から境内に入ってきた。
 「わし、ほんま、鳥居潜ったらあかんのや。明日、葬式へ行かなあかん。宮司さん言うには、親でも50日過ぎたら、もう神さんのことはせえって言いやったがな。喪に服する期間やけど、神さんをほったらかしにするのはあかん言うて。そない言いよったで」
 和明さんに続いて、杉若義徳(よしのり)さん(59)がオレンジ色のコンテナに注連飾りを入れてやって来た。集落の上にある金比羅さんの注連飾りを外してきたそうだ。義徳さんは、今年、市杵島神社の世話をする当家になった。
 「くじ引きで当たったさかい。元々30軒くらいあったんやけど、実質25、6軒やね。ここの神社は下畑だけで祀っとるから。初めての行事やから、(前任者に)聞きもってしよるんやけど。15日は、お飾り下げて、赤飯をお供えすると書いたあるだけで、皆がお飾り持ち寄って燃やすというようなことは書いてないわ。ダイダイは、なっとするんやろ。燃やされもでけんしな」
 義徳さんが、本殿、大神宮、灯籠や石塔の注連飾りを丁寧に外し、樫の葉へ載せた赤飯を、それぞれの神様へお供えして拝み終えると、ドラム缶の中に入れたお飾りに火が点けられた。その頃になると、ぽつぽつとお飾りを持って集落の人々がやってきた。竹ザルにお飾りを入れた前田さんが来て、境内に祀られる5体の神様を拝み終えると、お飾りを火にくべながら義徳さんへ話し掛けた。
 「やっと仕事したのは8日からや。家族みんなで沖縄へ行ってきたわ。面白かったでぇ」「ごっついステーキを食べたやろ」「それは食べなんだなあ」「今年は竜神様の役も当たったんで、こりゃ当たると思うて宝くじようけ買うたけど、一つも当たらへん」「お宮さん当たったら大当たりやもん。それ以上はないわ」
 和やかな時間が静かに過ぎていく。義徳さんの奥さんが、孫を抱いてやって来た。迎えに来たようだ。お飾りを燃やす火が消えたところで「そろそろ帰ろか」と、義徳さんが声を掛けた。下畑集落からの帰り道、陽が昇る前の冷たい空気に覆われた梅畑で、もう剪定に勤しんでいる男性の姿が遠くに見えた。
 予定していた取材を全て終えて帰路に着こうとしていた時、地元住民31名が出資して15年前に誕生した農産物直売所「きてら」(「来てね」の意の方言)の代表玉井常貴(つねたか)さん(69)から、「原和男さんには、ぜひ会うと良いですよ」と電話がかかってきた。
 さっそく訪ねてみると、原和男さん(73)は奥さんと一緒に、自宅の納屋で長野県からの注文者へ送るポンカンを箱詰めしているところだった。
 「ポンカンは、これからが最盛期、2月末までかな。40年ぐらい前から宅配しとったんで、口コミで広がったんやね。郵便振込で払ってもらうんやけど、1回も入金を確認したことないわ。悪い人は、そんなに居らんもんやしな」
 原さんが栽培しているみかんは約80種類あるが、主力品種は20種ほど。
 「みかんは、どの品種も5月8日前後に花が咲いて、基本的な管理は同じやけど、消毒と肥料それに摘果も、それぞれの品種で違ってくるわな」
 原さんにいただいた名刺を良く見ると、右肩に小さく…イーハトーブを我が里に…と書いてある。
 「私の農業の原点は宮沢賢治。ちょうど50年前に花巻を放浪したことがありますのや。1万円持って、小岩井農場や生家などゆかりの地を歩いて、椀子そばばっかり10日ほど食べたり、駅に寝かせてもろたり、生家にも泊めてもろた。ほんまの農業の原点はイーハトーブやね。自分の中に一つの大きな柱を持っとったら、色々大変なことあっても、その支えだけで『百姓はあかん』とか言うたことないんや。小さい時分から、いっつも宮沢賢治の本、枕元に置いて寝よったんや。安心するんやね」
 みかんの消費量は、40年前の約5分の1にまで減っているという。子どもの頃の正月は炬燵に潜り込んで、手のひらが黄色くなるほどもみかんを食べ、とりとめのない家族との談笑に時間を忘れた。みかんが家族を結ぶ果物であるならば、一年中みかんの実る里上秋津地区は、すでに原さんが目指すイーハトーブなのかも知れない。

写真と文 芥川 仁