読者からのお便り
リトルヘブン余録

 毎年、12月から翌年の2月まで、川を堰き止め、1000人も入れる広大な露天風呂が出現すると噂を聞いた。仙人風呂と呼ばれるそうだ。熊野古道を歩いた疲れを癒やすには絶好だ。
 観光案内所で場所を尋ねると、車だと熊野本宮大社から10分足らずで行けそうである。熊野川の支流大塔川沿いにある川湯温泉。ここは普段から、川原を掘ると熱い湯が湧き出すので、自分で、体が浸かる大きさまで掘れば、自分だけの露天風呂が出来上がるのだという。ただ、湧き出す湯温は70度を超えるので、川の水を引き込んで温度を調整しながら湯に浸かるのだ。何とも野趣溢れる魅力的な露天風呂ではないか。
 さて、国道311号から温泉隧道を抜け、川湯温泉街を目指した。トンネルを過ぎてほどなく川湯温泉街に到達したが、仙人風呂らしき表示はどこにもない。右下に見える大塔川の川原に、簾を張った囲いが見える。川原を整備した駐車場に車を止めて見回すと、すでに薄暗くなった川面に湯気が漂っているのが見えた。そこで、はたと困った。仙人温泉は混浴で、水着着用が原則と聞いている。水着は持っていない。タオルも持っていない。ともかく状況だけでも確認しようと、川の流れに架かる細い木橋を渡り、簾囲いの中に入った。無料である。目の前に広がる大きな露天風呂に、タオルで鉢巻きをした後ろ姿が、ぼんやりと見える。恐る恐る近付いて声を掛けた。
 奈良県橿原市から来ている男性だ。前々から一度は来てみたいと思っていたので、息子さんが車に乗せて連れて来てくれたのだと言う。「写真を撮らせてもらっていいですか」「ああ、かまへんよ。あんたも入ったらええ」と、快く応えてくれる。「そうか、タオル持ってないんやったら、わしが2本持っとるから1本あげる。水着ぃ、そんなもん、もう暗うなっとるからええんや」
 広々とした湯船に、手足をゆったりと伸ばして肩まで浸かる。底は拳大の玉石がごろごろとしていて野趣たっぷりだ。湯温はほどよい熱さで、火照った頬に夜風が心地良い。ほっかりとした温もりが身体の隅々へ広がっていく。仙人風呂の温かさのせいばかりではなさそうだ。日暮れたばかりの空を見上げると、十三夜の月が山の端から姿を見せたばかりだった。

写真と文 芥川 仁