2014年(平成26年)7月・初夏36号

発行所:株式会社 山田養蜂場  http://www.3838.com/    編集:ⓒリトルヘブン編集室

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「うちの梨畑には、樹齢100年を超える二十世紀梨の木が4本ありますよ。昭和30年代までは、自宅の庭先で出荷していたんですけどね。賑わって賑わって。車のなかった時代ですから、畑から梨を背負って帰っていたんですね。嫁さん、姑さんがですね。そうして藁屋根が、瓦の御殿になったですね」

西田陽二さん(79)に、自宅の上にある梨畑を案内してもらった。

「うちは代々百姓ですから、私で10代目。家を継いだため、外に出たことはありません。逆に、家を出た人は皿一枚から買って生活を始めなきゃならんでしょう。京都郵便局に勤めとった同級生が、山陰線の列車が京都駅に入ってきたらお客が駅から出てくるでしょう。それを郵便局の2階から見てると、故郷が懐かしくて涙をポロポロ流したと言ってましたよ。どっちが幸せという話ではないですけどね。先祖が植えてくれたこの樹齢100年の梨の樹には、一本で2700個の梨がなるんです。普通の木は、一本に5〜600個でしょうね。木の管理に気を配って、枝が良く張ってれば、それだけ沢山の実がなりますからね。この木は9月5日に収穫の予定です。東郷の梨は、一切薬品なんか使ってませんから、それまで辛抱して下さいと言いたいんですけど、やっぱり他所が早く出せば、東郷でも早く出さないと、ということになるんですよね。実を早く太らせる薬品があるんですよ」

「丸に別という部落のシールがあってですね。『マルベツ梨の味が忘れられない。人生最期の最期に、もう一度食べてみたいね』と娘さんがお母さんを連れて来られたことがありましたね。マルベツ梨の美味しさは土壌ですね。花崗岩地帯ですから、傾斜地で。味の良い梨ができるんですよね」

二十世紀梨は、1888(明治21)年に千葉県の松戸市で偶然発見された青梨系の代表的な品種で、1904(明治37)年には鳥取県鳥取市桂見に導入されている。それから間もなく旧東郷町でも栽培が始まったようだ。陽二さんの梨畑で栽培されている古木は、別所で二十世紀梨の栽培が始まった頃からの木なのだ。

別所を南北に抜ける小径を歩くと、集落南の外れにある梨畑に、梨の形をした石彫が乗った石碑が建ち、「ひと粒の種がみのりて世界まで行きわたりたる二十世紀なし 梨ノ先駆者 故伊藤馬蔵ノ碑」と刻まれている。梨畑の所有者だと聞いて、新しい長靴で総事に参加していた伊藤義英さんを訪ねた。

「二十世紀梨の苗木生産で、ここらを開拓しなさった伊藤馬蔵という私の叔父さんでな。馬蔵さんの五女の石井みよのさんが尽力して、父親の功績を認めてほしいと建てたんやな」

鳥取の二十世紀梨が、松戸市から苗木を買い入れて始まったとされるほぼ同時期に、伊藤馬蔵は二十世紀梨の苗木を独自に育成し、この地に定着していくのに功績があったことを忘れてほしくないため建立したのだという。

二十世紀梨の収穫は、9月から11月頃までだ。収穫が終わると直ちに肥料を施して剪定をし、伸びた枝を棚に止める作業が3月上旬まで続く。その頃になると確実な結実のため、品種の違った梨の花粉を交配用の花粉として採集しなければならない。その花粉を、畑一面に咲いている二十世紀梨の花一つ一つに人の手で授粉させていくのだ。

「交配させたら色でも着けばいいけど、色も着かんですしね。どこまで授粉しとったかなちゅうことになるんですよ。よそ見一つできない気の遠くなるような仕事です。梨つくりは、交配が一番大事ですわ」

二十世紀梨をつくる苦労を教えてくれたのは村田百合子(むらた ゆりこ)さん(85)だ。

「以前、献上用の二十世紀梨を出すことになった時は大変でした。ええ梨がなる木だがと想像しながら、袋の掛かったまま手探りで600個を選び採ってきて、それを、座敷に敷いた毛氈の上に並べて、又、袋のまま300個を選ぶんです。ここからは聞いた話ですが、組合に出してからは決められた人が手袋をして、そこで初めて袋をはずして選んで、赤い毛氈を敷いてですよ。県の方まで出たら、そこで又、選んで、こんだ桐の箱に入れて献上するらしいですが。献上品を出すのは名誉なことですが、何回もしくじってみて分かってくるですけんな」

義英さんが、梨農家7軒で共同経営している観光梨園の波関園(なんぜきえん)で袋掛けの作業があるというので、同行させてもらうことにした。

「雨降りでも袋掛けてな、大変でも共同のが優先だからな」と、小雨が降ったり止んだりする中で、腰を屈めたり後ろに反ったりしながら、体の前に提げた箱から素早く一枚ずつ袋を抜き取り、ピンポン球ほどの大きさになった梨の実に次々と袋を被せていく。針金で蔕(へた)に袋を留めた後、袋の下をプッと押し潰して風の抵抗を少なくする。どこの梨畑にも防風ネットが張り巡らされているのは、それほど風の影響が大きいのだろう。

「袋の数にして10万枚くらい掛けるでしょうかね。今日の作業は、新興という赤梨の品種。赤梨が甘いのでね。今は甘いものが好まれますからね。二十世紀梨は曲がり角にきていますね」

梅雨明けを予感させるような晴れた日の夕刻、別所の北の外れにある畑で百合子さんが背中にゴザを被って草取りをしていた。

「明治時代の人がしよったですが、私も真似して畳の古いので作ったですが。木の下で仕事しよるごとあります。今月の10日から20日ぐらいの間に、こんだ小豆を植えっとですが。野良犬とかイノシシの小さいのが出て来て、食べるより混ぜくっていけんですが。こんだ人間が網の中に入って仕事するようなことですよ。家内(やうち)が食べたり、親戚が食べたりすっとが楽しみで。自分が蒔いたものを自分が始末するのはいいことですけんね。無理せんように毎日せないかんですき。80からのおばあさんですから、ま、ぼちぼちですけんな」

「34歳になる孫が家建ててくれるって。『おばあさん、小まくてもいいがあ、新しい家建てたる』言うてくれるですが。一年間だけは勤めの関係で鳥取市の方に居りますけどね。ひ孫2人も連れて家族4人で土、日曜には帰ってきますが。『湯梨浜のばあちゃん、ただ今』言うて帰ってきますが。今は、どの家も子どもが少ないですからな。寂しいですね。私は兄姉(きょうだい)7人なんですよ。皆が元気だったならですよ。男3人、みんな戦争で死にました。私のすぐ上の兄から長男まで。長男は24歳で死んどります。あとは22歳や18歳や。親が悲しい思いしたと思います」

百合子さんは、キャベツの下に敷いてあった藁(わら)が飛ばないように張った縄を止めていたピンを回収していた。

「乾燥せんように藁を敷くですが、稲刈りの時に結束して後ろにポテンと落とすように機械が付いとるです。百姓屋は穫れる時が一時ですが、だけん加工するですが、冷凍して。ニンジン、ナス、コショウ、ゴボウ、フキ。そんなもんをみんな冷凍しとりますが。今年穫れるまで一年中食べられますが。米でも玄米にして冷蔵庫に入れますからね。ネギは夏に抜いて皮剥いて植えるですが。何が嬉しいのか大きくなりましたわ。他にも今畑にあるのは、キャベツ、ソラマメ、コショウは昨日穫ったばかりですけど、味ウリ、金時豆、里芋、カボチャ、サツマイモ、オクラ、ニンジン、シソは2回目を切って、3回目がこんだけ大きくなったですが。大根、タマネギ、ホウレン草は済んだですが。その空いた所に小豆を蒔きます。10月ごろまで小豆は畑にあります。それまでに作らないけんのは、小豆のない所に蒔きますが」

 

梨の袋を掛けるのも一つ一つの実に一枚ずつ掛けていくしか方法はないのだ。畑の草を抜くのも同じ、腰を屈め、一本一本を手に持って抜いていかなければ、畑の草は無くならない。気の遠くなるような作業を黙々とこなしていく農業の時間に圧倒された。現代社会が目指す合理的な時間とは明らかに異なる誠実と呼ぶような時間が別所には流れている。

次号(37号)は岐阜県で取材し、2014年9月末に掲載予定です。

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