2014年(平成26年)9月・秋 37号

発行所:株式会社 山田養蜂場  http://www.3838.com/    編集:ⓒリトルヘブン編集室

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剛さんのハス畑の脇を通っている歴史の道、黒瀬街道を歩いて坂折川上流域へ向かう。見行山(904.9m)の鞍部(あんぶ)は「山名」と呼ばれ、南北に600メートル東西に100メートルほどの水苔に覆われた湿地帯がある。ここが坂折川の水源となっていて、坂折棚田約360枚の水田を潤している。湿地帯を覆う水苔の上を歩くとふわふわで、厚さ5センチの絨毯を踏んでいるようだ。ここ「山名」の湿地帯から一本の細い水路ができ、その流れが坂折川を形作り、中野方川に流れ込んだ後に木曽川へ合流している。坂折棚田は、400年ほど前から築き始め明治時代初期には現在の形に出来上がっていた石積みの棚田だ。坂折棚田の灌漑用水は坂折川から取水する他に、山側の石垣から滲み出す湧水も重要な役割を果たしている。この湧水は水温が低いため、水田に直接入らないように石垣と水田の間に「手あぜ」と呼ばれる細い水路を作り、この「手あぜ」を通るうちに水温が上がるような工夫が施されている。先人の知恵が今に活きているのだ。

急な斜面に石垣を築いて作った棚田の農道は、当然のように急な坂道になっている。真っ直ぐ下へ落ち込むような棚田南側の農道を、軽トラックがタイヤを滑らしながら降りて行く。NPO法人の顧問を務める鈴村直(すずむら なおし)さん(77)が、夕方の栗拾いに行くところだ。直さんはNPO法人になる前の棚田保存会を中心になって作った。

「今年は雨が多かったもんで、草がえらい多かった。草刈りばっかりやっとった気がする。朝も栗拾いはするけど、晩も拾うとかんとイノシシが来るもんで。この集落全部に電柵をやっとるもんで、ちぃっと草が電柵に掛かっとるだけでショートしてしもて。入ってきそうな所に小便したりして人間の匂いを常時付けとくと、割とイノシシは入らんけど」

直さんが栗拾いに行く栗畑は、休耕田になって荒れていた棚田を、7年前に拓いて栗を植えた段々畑だ。

「元の水田に戻すには、そのままでは水が付かず(抜けてしまう)、整備するには費用と手間が掛かりすぎるので……」

栗を拾う直さんの身のこなしは、とても77歳とは思えないほど機敏だ。右手に大きめの火バサミ、左手に四角いカゴを持ち、つま先だって歩くような身のこなしである。妻の幸子さんも、その機敏さを認める。

「丈夫やわ、あの人は。よその人に比べると、丈夫い。山でもどこでも行っちゃうし、動きが速い。あれ、誰でもでけんよ。生まれつきやね、お祖父さんが、そういう人やった。ほんで、家に居ったかと思っても、他のこと思い付いてさっと出て行って、また、じきに帰って来るら。あんだけ動くちゅうことは、えらいもんね。真面目なこた真面目やけど、長いこと一緒のとこにはよう居らんね」

直さんは、10分余りで3段の栗畑の栗を拾い終わり、「今年の栗は、虫は付いとらんけど、粒がちいと小さいかも知れん」と言うと、夕闇が迫る棚田の急な坂道を軽トラックで風のように走り去った。

いよいよ土曜日は、小田文夫さん宅の稲刈り。最初に田んぼに姿を見せたのは、文夫さんの孫の高弘さん(32)だ。坂折集落の主要道路となっている通称中野方七宗線(県道402号)をコンバインに乗ってやって来た。現在、彼は仕事の関係で長野県安曇野市に居るが、稲刈りには家族も一緒に里帰り。一番頼りにされている助っ人である。一段下の棚田で稲を掛けるハザを準備していた柘植俊夫(つげ としお)さん(64)の奥さんが「早よ、帰っといで」と、声を掛けた。実家で暮らすのを待ってるよ、ということなのだろう。その後は、軽トラックの荷台に乗ったり、歩いたり、次々と人が集まり総勢17人になった。高弘さんが誰に言うともなく「今日は、俺んとこ、お祭りや」と、嬉しそうだ。

田んぼに乗り入れる前、高弘さんがコンバインの動作を点検していると、地元役場に勤める父親の浩さん(57)が覗きに来た。文夫さんは、コンバインのあちこちに潤滑スプレーを吹き付けている。3世代がコンバインを囲んで顔を合わせた。そこへ高弘さんの長男就大(しゅうま)くん(3)が興味深そうに近寄って行った。誰かが「4世代揃ったな」と、私に耳打ちした。

すでに先日、畦周りの稲株は刈り取ってあったので、点検が終わるとすぐに高弘さんがコンバインを田んぼに乗り入れる。みるみる稲は刈り取られ、コンバインの後から細かく刻まれた藁が田んぼに撒かれる。高弘さんの膝元には、ピースサインをする得意顔の就大くんが乗っていた。浩さんが、コンバインが刈り取った後に落ちている稲穂を、1本1本拾って畦に集めている。勤めてはいても、浩さんの根っこには百姓魂が備わっているのだ。

恵理佳さんは、もっぱら孫の守りを任され至福の時間を過ごしていた。「離れた所にもう1枚田んぼがあって、3枚合わせて2反がちょっと切れるんやけど、精米してから娘んとこや妹んとこ、皆に分けても充分あるわね。今年は、大人8人と子どもが2人、まだ来とらんわ」。

お茶の時間までに、下の田んぼは刈り終わってしまった。農道横の石に腰掛けてお茶を飲む文夫さんが呟く。「ま、今年で、百姓はお仕舞いのような気がするけど。若い衆に譲らな。有り難いこちゃで」。

先日、この田んぼで稲刈りの準備をしていた時、文夫さんが言っていた「もう今年いっぱいや」の本当の意味を理解した。こうして緩やかに世代交代をしていくことで、誰もが、順繰りに巡ってくる自分の役割を納得することができるのだろう。

五百子さんの姿が見えない。家で昼食の支度をしているのだろう。文夫さんが、五百子さんと結婚した当時の話をしてくれた。

「まあ、前へ前へ行く性格やもんでよ。色々のことがあって、お金も何も残っとらへんし。今日稲刈りした田んぼを手に入れたりもしたよ。山にもずいぶんお金入れたけど、現状やろ。多彩な人生やったけど、楽しい思い出はあんまりないな。嬉しかったことち言えばよ、嫁と一緒になった時ぐらいやないかな。僕の大工の弟子の紹介で、どうやちゅう話になっての。貧乏やし、どうしよかちゅうようなことやったけど、ほんでも一遍逢うてみよかちゅうようなことで。当時、嫁は、片倉の製糸工場に勤めとったもんで、定光寺で落ち合って、それから名古屋へ、丁度、大工をやりよった時やもんで、紹介してくれた弟子も一緒によ。変な評判が立ちゃいかんという訳でよ。嫁は、この集落で生まれ育っとる。祭りやとか村の行事の時にゃ、顔はしょっちゅう見よったもんで。歳は5つ違う。昔は、あんた、7歳にして席を同じくするなかれちゅうやつでの。その名残りはあったもんな」

「そやね、一緒になるくらいやから、良い娘やなと思うたんやろ。百姓やって、ここで生きて暮らすなんていうことは、若い時は思ってもみなんだけど。祝言には三等親とかよ、従兄弟とか、両隣とかが出て、祝言を済ますと、挨拶回りに手土産持って廻りよったんや。2人一緒やない。俺が行ったんか、カミさんが行ったんか。祝言は、昭和31年1月15日の成人式の日や。結構大勢祝言を見物に来てくれる人があったもんやから、その頃にゃ、何も無いで。見物に来てくれた人に、半紙を10枚ぐらい配りよったんかな。ドラマやないけども、その当時は、米の飯が食えりゃどえらいことやいう話やもんな。暮らし向きは、当時と変わった変わった。そやけど、昔の方が良かったかも知れんよ。人間がのんびりしとってよ」

上の田んぼを半分ほど刈り残したまま、文夫さん宅の稲刈りは、昼までで終わった。「乾燥機が小さいもんで、よけ入らんもん」と、文夫さん。この後、五百子さんが準備した昼ご飯をみんなで食べて、ひと休みしたら夜はバーベキューなのだ。稲刈りの他には、田植えとキウイフルーツの取り入れの時に、こうして身近な家族や親戚、それに友だちが集まって一緒に仕事をするのだと言う。そんな折々の機会を積み重ね、自分と繋がっている人びとを確かめ合うことで、ふるさとの記憶が刻まれていく。

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